photo


 このページでは私が撮影および加工した写真を掲載しています。現在はこのホームページやブログの背景画像として使用した写真のみを載せていますが、いずれは色々な写真を載せたいと思っています。

vanitas de la chambre

vanitas de la chambre
vanitas de la chambre

 ヴァニタス(ラテン語:vanitas)という静物画の一様式があります。人や風景を描かず室内に意図して並べた物を描くという構造により制作されている静物画には、王族や貴族の城を飾る生花の代わりとして描かれていた花束の絵(つまりそこでは絵は造花として利用されていたのです)という華やかなものから、静謐という言葉やあるいは禅とか侘び寂びといった言葉を使わなければ表現出来ないような様な絵を描いたシャルダンを代表とする静寂の静物画というものまであり、そこに絵描きの初心者がデッサンを学ぶ際に描き、また完成した作品としても描かれてきたリンゴなどの果物の絵、更にそれをデフォルメ、破壊し発展させたセザンヌの「果物籠のある静物」を加え、大胆にもダリやマグリットやデ・キリコのシュルレアリストの画家たちが描いた心象風景の絵もこのジャンルに加えるのならば、静物画というジャンルの絵は無数のヴァリエーションを持っていることになります。ヴァニタスはそんな様々な表現方法を持つ静物画のなかの一様式です。

 無数のヴァリエーションを持つ静物画の中で一様式が確立されていることは珍しいことです。とはいえその様式は厳格に決められているものではありません。しかしその絵に込める哲学は1つであり、実際に描かれる物/道具も似通ったものでした。ヴァニタスの哲学とは絵を観る者に死を意識させることです。そこから転じてヴァニタスと同じラテン語であるメメント・モリ(memento mori)の哲学を表現します。メメント・モリという言葉が持つ意味を端的に表現すれば死は必ず誰 の元にもやってくるというものですが、その死への意識は日本の平家物語に書かれた沙羅双樹の花の色といった儚さと美しさの趣や、死は絶対に誰の元にもやってくるのだから今日を精一杯生きようという死から反転する生のエネルギーとも繋がるものなのです。この絵が多く描かれたのはヨーロッパの16世紀、いわゆるバロック時代であり、この時代といえばマルティン・ルターによって大々的に始まる宗教改革の時代、カトリックとプロテスタントの対立の時代であり、多くの戦争やペストを初めとする疫病で大量の死と破壊を経験した欧州が、その心の拠り所であった宗教の牙城が崩され再構築を強いられた、社会状況や個人の精神的なあり方が揺らぎ不安定になっていた時代でした。その中で死は多分に意識されるものであり、それを反転させる力を持つヴァニタスが必要とされていたのでしょう。クリスチャンが死んだ後に向かうのはキリストによって開かれた天国であることも忘れてはなりません。クリスチャンにとって死を意識することはその先の天国を意識することでもあるのです。宗教の基盤が揺らぎ、多数の宗派が生まれども、死というものは人間に必ずやってくるものですから、その絶対性はありとあらゆる教義より強く、故にそれを再評価し、それまでとは違う別の捉え方をする必要がありました。

 一方でこの様式をより正確に語るためには、この時代のヴァニタスが多く描かれた地域が(現在の)オランダであることも記述しなければなりません。オランダはこの時代、豊富な資源とそれを国内の隅々に運ぶことを可能にした河川を利用した輸送方法と工業での資源の活用、東インド会社を初めとする国外への貿易とそれに伴う世界初の証券取引所の誕生により経済的に発展し、その手は当時鎖国していた極東の日本へも……というのは教科者に書いてあることなので省きますが、経済的発展に伴う宗教的寛容……プロテスタントの国にして、ユダヤ人もカトリック教徒もいたという状態でオランダ文化は他の国にはない比較的自由な発展を得て、絵画でも独自の文化が花開きました。そういった国で死の静物画が多く描かれたというのは面白い話です。これは私の(その時代に生きた人々の心への)想像ですが、それはまず死の絶対性への意識から生の享受に通じて騒ぎ遊ぶということに繋がり(何せラテン語のメメント・モリの後に続くのは飲んで踊れという言葉ですから・笑)最終的には遊びきった後の空しさ、我々日本人にとっては夏祭りの後の物悲しさという奴ですが、それはフェデリコ・フェリーニ監督が撮った映画「甘い生活」のラストシーン、白いシーツを纏い一晩中遊んだマストロヤンニが浜辺で見たもの、砂浜に打上げられた深海魚の腐った死骸と同じものだったのではないでしょうか。ヴァニタスという1つの絵において死→生→死という流れがあり、この死はやがて再び生に繋がる。つまり死が生を想起させ、生が死を想起させることで、生と死の両端が結びつき1つの輪が生まれるのです。生と死のサイクルは肉体/生物にとっては自然なものですが、それがヴァニタスという絵を通すことで鑑賞者、一個の人間の精神のなかでも起っていた(明確に意識された)のではないでしょうか。そして我々はヴァニタスを観ることで現代でもそれを心に起すことができるのです。こういった死と生のどちらかだけではない、両方を生み出す輪を意識させることこそがヴァニタスが持つ哲学です。

 さてヴァニタスの哲学について書き越えたところで、実地的なもの、ヴァニタスにはなにが描かれていたのかということに話を移しましょう。端的に言えばそれは鑑賞者に死を想起させるものです。代表的なものは人間の頭蓋骨で、これはまさに死という事象の結果を描いていたわけですが、それに対比させるように、瑞々しい生の印象をあたえる果物や生花が描かれました。その一方で腐った果物や枯れた花も描かれました。言うまでもなく生花はいずれは枯れますし、枯れた花にも美しく咲いていた時期がありました。生により死を想起させまたその逆もやっているわけです。富を表現する金貨や、富を得ることと失うことが同時に存在する賭け事を表すトランプ、殺人を連想させるナイフ、自画像(これも生花と同じ効果ですね)、画家が日常生活で使用していた道具(食器類やお茶を入れるポット)も描かれました、後者はいわゆる形ある物はいずれは壊れるという思想(事実)により登場しました。富や文化を表現する楽器や書物、そして煙を生み出すタバコやパイプも描かれました。煙というのは死に対する暗喩です。ヴァニタスは無数の表現方法を持ちますが、そのほぼ全てで上記のうちのどれかが(あるいは大抵の場合で複数が)登場します。

 私が制作したこの写真の題名は「vanitas de la chambre」です。ラテン語とフランス語を合わせた題名の読み方はヴァニタス・デ・ラ・シャンブルで日本語にすると「部屋のヴァニタス」です。題名のとおり私が日常生活で使用している部屋で撮影し、一つを除いてその部屋にあるもので構成しました。唯一撮影のために購入したのは薔薇の花束です。普段使用している部屋で撮影をして普段使っている物を登場させているからといってなにも、ものは人の手に所有された時点で死んでいるといった実存主義的な語りや、あるいは部屋という空間を描くことで静寂の安らぎとそこから連想する死を表現したハンマースホイの絵画のようなことをしたかったわけではありません。この写真は私が書いた小説を載せている calmant doux pour la dépression.  というブログの背景画像にするべく作ったものです。ですのでこの作品には写真による自己紹介という面が多分にあります(全てではありませんが)。自己紹介を写真で行うと決めた時に心に浮かんだのがヴァニタスの様式を利用することでした。つまり私は生と死をそれぞれ単独したものとして描くのではなく、豊かな輪廻を持ったものであり、それが一個人の精神のなかでも起っていることを表現したいのでしょう(したいのでしょう、なんてまるで他人事のような書き方ですが、ここには私の無意識が絡んでいると想像しているのでこのような書き方をしました)。

 vanitas de la chambreには様々な画家の手により描かれたヴァニタスに登場していたものを写しました。花、楽器、コイン、書物、自画像(鏡ですが・笑)、ポット(コーヒーメーカー)、酒、グラス、パイプ、万年筆、香水瓶、木の実、キャンドルなどです。何処になにがあるのかを確認するのも面白いので、お暇つぶしにどうぞ。絵や写真は普段から部屋の壁に掛けているものです。作者を並べるとマティス、キャパ、ターナー、シャルダン、ベーコン、ユトリロ、フュースリ、古代ギリシャ時代のクラテーラ(ワインと水を混ぜるための瓶)の写真、そして頂いたポストカードとフェリーニの「8 1/2」のリマスタバージョンが渋谷で上映された際に配布されていたフライヤーです。並べた本の題名はこのページの下部、制作の途中で撮った写真でその一部を確認できます。

制作風景
上段:(左)撮影開始直後、壁に布を垂れ下げた状態。この布は普段はソファーに掛かっている物で、下部の膨らみは布の裏側に(これもまた普段使っている)本棚を入れたものです。撮影で一番苦労したのが布で美しいドレープを作ることでした。試行錯誤はありましたが完成した写真の特にサックスのネック周りの襞は美しくすることが出来ました。
3段目:(中央)(右)作品の下段と中段には本を並べました、この2つの写真ではその一部の背表紙を確認することができます。ちょっとした謎掛けみたいなものですが、並べ方にも意図があります。
下段:この段の写真はvanitas de la chambreを加工したものです。作品としては良いのですがブログの背景には適わなかったので(実際に試してみたのですが、ブログの文章よりも写真が目立ってしまいました・笑)ボツにしたものです。

fond d'écran

現在ご覧のホームページや運営している2つのブブログの壁紙として使用している写真や絵です。


上段:(左)批評と日記を掲載するブログ「gris homme」に使用したタイポグラフィ。題名の周りを囲うように縦書きした文字はフランス語の色名です。下部に並ぶ文字はフランスの詩人ポール・エリュアールが書いた「ぼくが君に語ったのは」(Je te l'ai dit)という詩です。右に居るのはグリソム君というオリジナルキャラクターです、凄い下手な絵で申し訳ないんですが(笑)。(中央)グリソム君からの挨拶。(右)グリソム君の主張。……お判りの方も多いと思いますがこれはスラヴォイ・ジジェクが書いた著書からの引用です(笑)

二段目:(左)このホームページのprofil(自己紹介)ページに使用した写真。クレマンとマカロンと書物です。クレマンを注いだ泡立つグラスの中にprofilと自己紹介の文字が沈んでいます。(中央)sommaire(目次)のページに使用した写真。ソファと衣類とタイやベルトや帽子や手袋などの服飾雑貨、ティナント(ウェールズの硬水)とロンドンプライド(ペールエール)などです。この写真にはsommaireというフランス語を使っているのにも関わらず写っているのはイギリスのものばかりというジョークが含まれています。(右)小説を掲載しているブログ「calmant doux pour la dépression.」のロゴ。デザインの意図は文字にリズムを与えることです。

三段目:(左) calmant doux pour la dépression.の紹介ページに使用した写真。二段目左のロゴを使用しました。映っている夜景は新宿のビル群です。右上にシャンデリアが映っていますが、そのことでこの写真をどういう場所で撮ったのかを想像することが出来ます。(中央)gris hommeの紹介ページに使用した写真。ブログの背景画像に使用した絵に書いたグリソム君をそのまま引用しました(笑)吹き出しのなかの文字はもちろんgris hommeです。(右)現在ご覧のphotoページの背景画像に使用した写真。青いランプと黒い瓶です。

4段目:(左)contact(連絡)ページに使用した写真。川沿いの道に寝ていた野良猫です。(中央)calmant doux pour la dépression.以前に小説を掲載していたブログ「インヴィジブル・ポエム・クラブ」の背景に使用していた写真。まだ二十歳前後だった頃(撮影した正確な時期は失念してしまいました)の私と飼っていた猫(名前:ラヴィ)です。